「僕が音楽活動をはじめた経緯①〜高校時代編〜」が思いのほか好評だったので、続きのシリーズを書いて行こうかと思います。
(高校時代編を読んでくださったあなたへ。本当にありがとうございます!)
第2回の舞台は「専門学校編」。
高校時代に出会った親友、尊之(@Eternaltakayuki)の影響でギターを始めた僕は、ギターの弾き語りにハマり、
ボランティア活動の一環で福祉施設でライブをしたり、高校の文化祭でバンドを組んで演奏するようになっていきました。
でも、高校時代までの僕にとっての「音楽」は、完全に「趣味」。
実は、高校時代まではまだ「シンガーソングライター」という言葉すら知らずに過ごしていました。
そんな僕が、ついにシンガーソングライターと名乗って活動し始めたのが、専門学校時代のこと。
ちなみに「専門学校」といっても、「音楽」の専門学校ではなくて、
僕が通っていたのは「介護」の専門学校でした。
では、なぜ介護の専門学校に通っていた僕が、音楽の道を歩み始めることになったのか?
第2回の今回は、僕がシンガーソングライターとして活動するまでに起きた、様々な物語をお届けします。
今回の記事も、ゆったり、まったりとしたい気分のときにでも、読み物としてお楽しみいただけたら嬉しいです♪
↓第1回「高校時代編」のお話はこちら↓
更衣室のギターは罠だった・・・
冒頭でも触れたとおり、僕は高校を卒業してから介護の専門学校に進学しました。
介護の道を志した理由は、
・僕が、おじいちゃん子だったから
・介護施設のボランティアをしたときに「君は筋が良いね〜」と褒められて、調子に乗ったから
・親戚のおじさんに「少子高齢化が進んでるから介護やれ!介護!」と言われたから
・頭が悪い僕にでも就職はできそうだと思ったから(←失礼)
・国家資格(介護福祉士)が取れれば、将来は安泰だと思ったから
後から考えてみると、色んな理由が見つかるけれど、たぶん「なんとなく」だったと思います。
当時の僕は、勉強がすこぶる嫌いだったから、大学への進学することは考えていなかったし、
就職するということもイメージ出来なかったから、それらの中間として存在しているような“気がした”「専門学校」への道を選びました。
振り返ってみると、なんてだらしない若者だったんだろうって思う。
んん〜。自分の人生なのに、完全に流されている。。情けない。。
でも、そんな僕でも「介護の道に行くぞ!」と決めてからは、どんどん情熱が湧いてきて、
「やるからには、介護のスペシャリストになってやるぞーー!!」
という意気込みで、気持ちが燃え上がっていきました!
とはいえ、1人で介護の道に進むのもどこか心細くて。。
当時、僕にギターを教えてくれた尊之(@Eternaltakayuki)が、進路に悩んでいる様子だったので、
「俺と一緒に介護のスペシャリストになろうーーーー!!」と、ちょっと強引に同じ専門学校に連れて行きました。(笑)
たぶん、ワンピースのルフィーみたいに、「俺の仲間になれーーー!!」みたいな勢いだったと思いますw
そんなこんなで、高校時代からギターを一緒に弾いていた尊之を専門学校にも引き連れていったもんだから、僕らの会話は介護の専門学校に進学してからも「音楽」でいっぱいでした。
ちなみに、進学先の専門学校は、盛岡市にある県内で最も歴史の古い専門学校。(残念ながら、今はもうありません)
介護のプロを世にたくさん送り出してきた、歴史ある学校でした。
「歴史ある学校」と聞けば、お堅いイメージを抱いた方もいらっしゃるのでは?と思うのですが、ぜんぜんそんなことはなく、
新しいものはどんどん取り入れて、常に進化しているような、明るい雰囲気の学校でした。
で、そんな雰囲気だからか、あんまり違和感を抱くことはなかったんですが、
僕らの通っていた専門学校の更衣室には、なぜかアコースティックギターが1本置いてあったんですよね。
しかもこのギターは、持ち主不明の「謎ギター」。
普通に考えれば、介護の専門学校なのにアコースティックギターが常備されているなんて、どう考えてもおかしい。
でも、頭の中が「音楽」でいっぱいだった、おバカな僕たちは、なんの疑いもなく、
「おっ!ギターがあるじゃん!ラッキ〜♪」
くらいの軽いノリで、そのギターを放課後の教室で弾いて遊んでいました。
そんなギターを弾いて楽しそうにしている僕らのことを見た1人のクラスの女子が、
「ゆうとりん(当時の僕のあだ名)、ストリートミュージシャンとかやったら良いんじゃない?」
と提案をしてくれたんです。
「ストリートミュージシャン」
その言葉は、初めて耳にした言葉だったのに、なぜか“未知の未来”が一気に拓けたような気がした、不思議な言葉でした。
これが、僕が趣味だった音楽を、外に向けて発信して行こうと初めて思った瞬間。
謎ギターのおかげで、僕の音楽活動人生がスタートすることになりました。
ちなみに、その「謎ギター」ですが、
後日僕らの担任の先生の持ち物だったことが発覚しました。
担任の先生:「更衣室にギターを置いておけば、誰かギター好きの生徒が、俺に声をかけて来るんじゃないかな〜と思って置いておいたんだよね♪ニヤリ」
と言われたときは、
「し、しまった。まんまとハメられた・・・」という、なんとも言えない悔しい気持ちになったことを覚えています。
どうやらあの謎ギターは、担任の先生が僕らに仕掛けた罠だったようなんです。(笑)
でも、先生が置いてくれたあの謎ギターがあったおかげで、その後僕は「ストリートミュージシャン」として活動を始めることになりました。
「歌う介護士」ストリートミュージシャンとの出会い。
人前で歌った経験はあるとはいえ、さすがに都会の真ん中の道端で、しかも、僕に興味がない道行く人たちに向けて歌った経験なんてなかった僕は、
「ストリートミュージシャン」という活動に興味はあったけれど、いきなり1人でギターを担いで街に繰り出せるほどの勇気はありませんでした。
そこでまずは、当時流行っていたSNS「モバゲー」を使って、盛岡市でストリートミュージシャンをしている人を探してみることからスタート。
すると・・・
たまたま「歌う介護士」を名乗って活動しているストリートミュージシャンの方を発見!!
「音楽」+「介護」という活動スタイルは、僕自身の状況と重なるものが多く、一気に親近感を抱きました。
善は急げ!!!と言わんばかりに、さっそくその方にモバゲーで連絡を取り、実際に演奏をしているところを見に行くことに♪
ストリートライブが行われていた場所は、盛岡市の大通りでした。
人で賑わう週末の、夜9時頃。
シャッターが閉まったお店の前に、その人はいました。
力強くかき鳴らされるアコースティックギターの音。
少ししゃがれた歌声と、圧倒的な声量。
初めて聞く路上ミュージシャンの声は、びっくりするほど大きくて、
生音のはずなのに、週末で人がごった返す大通りアーケードの中でも、歌声が反響してしまうほど大きな声で歌っていました。
ビリビリと身体が震えるほどの大きな声量と、歌の熱量を浴び、その場にいるだけでも、胸がドキドキしてきて、
「僕も、早くそっち側(ストリートミュージシャン側)に立ちたい!」と思いました。
ただ、ワクワクする一方で、やっぱりビビりなままの僕もいて。。
結局、その後初めて僕が路上で声を出したのは、先輩ミュージシャンと出会った数週間後のこと。
先輩ミュージシャンが歌う場所の横で、こっそりとギターケースを開いて、
超超超ビビりながら、恐る恐る、そっと、おどおどと、まるで生まれたての小鹿のように震えながら、、
ようやっと、歌を歌いました。
歌ってみた感想は・・・
「僕の声、小っっさ!!!!!」ってこと。(←1人ノリツッコミ状態)
雑踏の中で歌を歌うと、びっくりするほど自分の音が聞こえないんですよ。
もう、全然聞こえない。ぜ〜〜んぜんです。
ビビっていたこともあったとは思いますが、その後どんなに全力で声を張り上げてみても、
僕の声は雑踏の中に響くことはなく、
まるで、寒い日に口から出た白い吐息が、空気にぼんやりと溶けて消えいくかのように、僕の声は誰の耳にも届きませんでした。
先輩の声と比べてみると、たぶん100分の1くらいのボリューム。。
これが、すんんごく悔しくて。
だって、上手い下手の話の前に、聞こえないんじゃ、そもそもお話にすらならないからです。
あまりにも悔しい経験をした僕は、とことん大きな声を出す練習だけをするようになりました。
例えば、僕の実家は山の中にあるので、山から僕の声がこだまして返ってくるようになるまで、声を張り上げて外でギターを弾いてみたり・・・
夜中の新花巻駅(新幹線駅)に行って、500m以上離れた場所から、駅の建物に向かい大きな声で歌って、僕の声が跳ね返ってくるようになるまで声量を上げる練習をしてみたり・・・
そして、その練習の甲斐あって、、
ついに「誰かが奇声を上げている」と近所の方に通報されてしまうほどに、大きな声を出せるようになりました!
(本当に、すみませんでした。。↓↓)
でも、通報されるほどの大きな声が出せるようになった僕は、もう盛岡の雑踏でも、歌声をかき消されることは無くなり、ストリートミュージシャンとしての自信を手に入れることが出来ました。
これが僕のストリートミュージシャン1年目のお話。
僕が当時、18歳頃のことです。
毎週のようにストリートで歌い、少しずつ「人前で歌う」という度胸と自信をつけていきました。
ちなみに、これは後から分かったことなのですが、
どうやら僕の憧れていたストリートミュージシャンの先輩は、ミュージシャンの中でもモンスター級に声がドデカイ方だったらしく…w
今となっては、僕には大きな声量はいらなかったなぁ。なんて思ったりもします。(向き不向きってありますからね)
だって、歌は繊細なもの。
声量はコントロールが大切です。
「君ね〜。大きな音を出したいだけなら、マイクを使えば良いじゃない?そんなに、がなって歌っていても、ぶっちゃけあんまり歌上手く聞こえないよ〜」
もしも、当時の僕に今会えるなら、そんなアドバイスをしたいですね。
もっと早く気づいていれば、通報されることもなかっただろうに・・苦笑
ライブハウスデビューと暗黒時代のはじまり
ストリートライブで出会った方との繋がりで、僕ははじめてライブハウスデビューをすることになりました。
そのとき、共演させていただいたミュージシャンは、カラーボトルさんとレイクさん。
今思えば、はじめてのライブですんごい方々とご一緒させていただいたんだな〜、と思います。
ライブハウスデビューは緊張しっぱなしだったので、自分がどんな演奏をしたかなんて覚えていません。
でも、カラーボトルさんとレイクさんの演奏レベルが、神の領域だったことは強烈に覚えています。
「僕も、あんなカッコいいミュージシャンになりたい」
強くそう思いました。
でも。ストリートやライブハウスといった「キラキラした世界」から、いっきに強い刺激を受けたことは、僕にとって良いことばかりではありませんでした。
音楽業界のキラキラした世界は、それまでの僕の人生の中に1mmも存在していなかった美しすぎる世界。
そんな世界に飛び込んだことで、「僕は人とは違う特別なことをしている人間だ」という勘違いをしてしまったんです。
音楽活動をすればするほど、「自分は特別」という勘違いが強くなっていく。
次第に、身の回りにいる夢や将来の目標を持っていない人のことを下に見るようになっていき、
気がついたときには、仲間がいなくなってしまいました。
そして、この勘違いは、20代の間ずっと続きます。
ほんとに痛いヤツですよね・・・
と今なら分かるけれど、当時は全然気づけなかったんです。
「まだ俺に時代が追いついていないのか〜」
「地元には俺の音楽が分かる人はいないから、県外に行ってみるかー!」
きっと、言葉にしたことはないけれど、頭の中ではこんなことを思っていたんだと思いますよ。
もう、ほんとにサイテーな野郎です。
「君、何様だよ?」って感じ。
上手くいかないときって、どうして自分自信でどんどん状況を悪化させてしまうんでしょうね。
勘違い野郎だった僕のせいで、身の回りの方にはたくさんご迷惑をおかけしたし、
不義理なことも多くしてしまっていたはずなので、嫌われてしまっても仕方ありません。
介護の専門学校の友人たちも、
音楽活動で出会った音楽仲間たちも、
みんな心の距離が離れていき、気がつくと僕はひとりぼっちになっていました。
専門学校時代は、僕の中でまさに「暗黒時代」。
明るい記憶よりも、暗い記憶の方がたくさん蘇って来てしまう時代です。
ただ、そんな暗黒時代も専門学校の卒業とともに節目を迎え、
僕はその後、デイサービス(通所型介護サービス)に就職をすることになりました。
職場を選んだ理由は、
「デイサービスなら夜勤もないし、音楽活動も自由に続けられそうだったから。」
もう…仕事をなんだと思っていたんでしょうね。なめすぎだよ、二十歳の俺。。
夢も仕事も、全部中途半端。
そんな奴の人生が、上手くいく訳がありません。
でも。
捉え方がねじ曲がっていたとはいえ、
・介護
・音楽
という存在は、僕の中で紛れもなく「好きなもの」でした。
だから、介護の仕事も音楽活動も本気で楽しかったし、「成長したい」という気持ちや、情熱は持っていたんですよね。
そんな「好き」という気持ちが高じて、その後僕は人生を変える、「大きなコト」に出会うことになります。
さて、その続きのお話はまた次回!
「僕が音楽活動を始めた経緯③〜会社員時代編〜」で、お届けさせていただきますね。
お楽しみに〜
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